2011年4月16日土曜日

津波調査 3日目 宮古~気仙沼

昨日の日記について。2日目の夜は、ほとほと疲れ果て、PCを開く気にもならなかった。5時半起床。一応疲れは取れた。6時朝食、6時半出発だったので、PCを開けず、助手席で書いている最中、釜石に着き、写真やビデオを取りながら、アップロード。回線の状況が悪く、写真はエラーとなる。ということで、誤字だらけだがご容赦を。タイトルの到達地名が間違っていたので、今直した。写真もアップロードやり直し。

さて、3日目。

遠野を出発し、市内のコンビニで買出し。コンビニにはヨーグルトもあり、不足は感じられない。時間帯によりかも。

本日の予定は、まず東へ進み、釜石に出てから、一度昨日の終点の宮古まで北上して戻り、そこから南下するものである。

釜石に着くと、市街地は通らずにバイパスで通り越す。車中から、瓦礫の様子は見える。テレビに出てくる、大きな漁船が打ち上げられている様子は遠めに確認した程度。助手席にいながら、ビデオが活躍。細田先生の言うとおりだ。とりあえず写しながら、コメントを記録。メモとして有効。

まずは北上。宮古までは車中のみで止まらない予定。

釜石北。ICを降りたところの鵜住居川を下るにつれて、瓦礫。

船越湾と山田湾を結ぶ、低くなった土地は、陸地を津波が抜けたという。

宮古に着くと、今度は、宮古湾の東側に位置する、重茂(おもえ)半島を目指す。宮古湾の最奥部に位置する津軽石川には、瓦礫。水門があるが、それはどの程度機能したのだろうか。運動公園辺りも一面瓦礫の山。半島に向かう道路は、波の浸食で、護岸は流出し、ガードレールがないところが多く、復旧のため、丸太がそのまま置かれて、ガードレール代わり。それがずっと続く。一部、漁具の浮きが並べられていたり。誇張ではない。アスファルトはめくれて、道路はでこぼこ。

その右手の山側には数箇所、水門に守られた集落のようなものが見られるが、海に近い20mほどは壊滅していた。

まず、重茂半島の突端へ。ここは、土木学会ではまだ計測されていない地域という。既に研究者が計測しているが、土木学会とは関係ない別の団体であった。最大高さは20m程度。



次に、太平洋側(半島東側)を南下した箇所を測定すると、15m程度。ここの漁港には、堤防があったため、高さが抑えられたのだろうか。なお、コンクリートの防波堤が、打ち継ぎ目でぽっきり折れている。ざっくり、1000tonの静的換算の水平力と試算。海岸工学の先生と同行しているが、このような観点の指摘はなかったと思うので、些細無いことであるが、構造的な観点からコメントしまくりたい。そういうモチベーションで参加している。なお、メンバーは、海岸工学の教員2名と、その研究室の留学生と私の4人である。留学生には、敢えて、どんどんコンクリートや橋梁、構造の話も織り交ぜてコメントしまくる。凍害やアルカリ骨材反応も、ごろごろしているので、良い教材だ。電柱も、塩害ひび割れ少々。



次は、比較のために、半島の西側。宮古湾内だが、湾口部に近い、「追切」という地名で測定。結果、おそそ30m強。当初の予想と反対に、波が直接作用した東岸ではなく、西岸の方が高いとは。局地地形の影響もあるので一概には言えないが、湾の影響か。なお、津波の痕跡を探すのは大変。単に、たった一つの発泡スチロールの最高点の痕跡をピンポイントに取り上げるのではなく、周囲の状況を見ながら、説明のつく正確な痕跡を探す。なるほど。

今回、迷う箇所が何度かあった。土壌を塩分滴定で計測できるのではないか、と提案したところ、興味は持っていただいた。研究室で滴定装置を導入したことも生きるかな、と思ったが、結局、そもそも飛来塩分もあるから、単に計測しただけでは区別が難しいし、そもそも1ヶ月も経過して何度か雨も降っているので、無理と判断。とはいえ、前述の通り、私の持てる知見を、海岸工学の先生に提示して違う観点からの議論を呼ぶことが私のミッション。

この「追切」において、住居が全壊した跡が良く見えた。風呂や家具、食器類などが見え、生活感がわかったとたん、こみ上げてくるものがあった。これまで、瓦礫だけを見ていると、現実感がわかなかった、というのが正直な感想だった。しかし、数十分の間、この付近を歩き回って、そのような状態を見たことで、気持ちがこみ上げてきた。

既に、12時をまわり、車中、コンビニで買ったおにぎりをほおばる。

半島は最後に、東側(太平洋側)を計測する。沢に沿って上がっていった波を計測。実際の水が流れているので、沢登、岩登りの様相を呈する。私は慣れっこだが、このような装備で山登りはきつい。沢が電波を反射するのか、測定の精度を出すのに苦労するが何とか完了。



宮古を後にして、南下する。時間がだいぶかかったので、先を急ぐ。

波板海岸にて、鉄道橋が流出。私が運転していたので、写真はとれず。

大槌町。河口部の道路橋は生きているが、軸方向に見ると、一部30cmほど下流に動いているようだ。

両石。車窓から。

釜石。車窓から。高台で止まって、湾の写真を取る。

吉浜。ドライバー交代。後ろの座席へ移動。

大船渡。高速道路を通っているため、市街地は通らず。高台から湾の写真。防波堤が殆ど消えている。

17時。陸前高田。跨線橋が落橋しているが、線路自体も流されているため、そのまま陸地が整地されて、道路として復旧されている。

さらに行くと、川で、道路が切れたのを、仮設の鋼桁橋で応急復旧。当初、落橋と思った。近づいてよく見ると、2つの橋台と桁(PC)は健全。橋台背後の地盤が流出しているため、仮設の橋をかけたのである。架設の橋の片側は、既設道路橋の上に載っているのである。橋というものは、コンクリートのアバットからアバットまでではなく、やはり、道路の機能保全として一体に考えなければ意味がないことがわかる。



その後南下している最中、似たようなことが多く、周囲に何もない中で、一見無傷な橋だけある、という奇妙な状態があった。道路(線路)が消えて橋が残る、という不思議。総合政策として対処すべきではないか。

343号で、矢作付近で、線路流出。森戸が流されて、逆に、橋梁が残っている箇所も。

陸前高田から、R45は通じず、結局西回りに。竹駒では、下流から4kmのところに、一見周囲に山しかないようなところが、津波の被害。瓦礫。不思議な光景。

車は気仙沼高田線(県道34号)を南下して、気仙沼へ。R45は内陸部なので、市街地はわからず。遠めに、被害を受けていることはうかがい知れる程度。この辺で日没近く。

沖の田川を跨ぐ鉄道橋が流出。

以後、暗くてわからない。細田先生が前回見てきて、4月末にもまた来るところなので残念。

津谷からは、内陸部を行く。

北上川を渡る、R346の錦桜橋を通る。

R346、佐沼を過ぎる辺りから、どうろがでこぼこ、盛土が滑っているのか、橋梁との交差部で、車がジャンプする。がたがた道だ。これが、多賀城に着くまで続く。

松島を通る。暗くてわからないが、浸水した跡がわかる。

塩釜。夜なので状況はわからないが、周囲に電気が極端に少ないことで、被害の程度がうかがい知れる。逆に、地域の拠点になっているのか、コンビニだけが赤々と電気がついている。横浜とは真逆。

21時。ホテル、ルートイン多賀城。すぐ海のようで、駐車場の横には、つぶれた車が転がっている。周辺も相当浸水被害のようで、計画断水中という。ホテルのタンクに水があるので、水道は出る。

お風呂は共同浴場のみ。エレベータが使えないので、非常階段がメイン。10階建てで、私は6階。雨が降ったら大変だ。部屋の掃除も手間を減らすために、各階はろうかから土足厳禁。非常階段からフロアに入る時に、靴を脱ぐ。この不便さに、現実に引き戻された感じがする。夕食場所も少ない。食後、コンビニに行ったら、殆どの生鮮食料は、売り切れ。


以下、メモ。役立ったもの:
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