2018年6月24日日曜日

42歳を迎えて

本日42歳を迎えた。

午前中は部活の引率もある、普通の日曜日であった。

幕末の志士は皆若くして活躍し、若くして亡くなった方も多い。私の中では42歳というのはひとつ感慨深いものがある。香川県の偉人として5本の指に入るのは、大久保諶之丞(おおくぼ じんのじょう)であり、彼が亡くなったのが1891(明治24)年12月、42歳の冬であった。

大久保諶之丞は、香川県の土木技術者であり、政治家である。130年前のアメリカ ニューヨークにかかるブルックリン橋が完成したのを知り、本州と四国に橋をかけるという、当時としては夢物語を提唱した人である。

 四国と本州を結びたい・・・瀬戸大橋 1889年に構想 →1988年完成
 讃岐平野の水不足を解消したい・・・香川用水 1891年に構想 →1974年完成

香川県を縦断して徳島、高知へと繋がる四国新道を建設したのも大久保諶之丞である。今の国道32号線の猪ノ鼻峠越えの旧道にあたる道である。

いま、国道32号線猪ノ鼻峠を貫く新猪ノ鼻トンネルの建設が進んでおり、国土交通省四国地方整備局、および施工者の佐藤工業と共に、新猪ノ鼻トンネルの品質確保に取り組んでいるのが私の一番のライフワークのひとつになっている。

四国においても、新設コンクリートの品質確保の取組みが少しずつ進みつつあるが、この新猪ノ鼻トンネルは四国の実践例の1番目として位置づけても良いだろう。大久保諶之丞が開拓したこの道の数度目の改良に学という立場で携わることができていることに誇りを感じている。その諶之丞が倒れたのが42歳の12月の県議会の場であるとは、私にとって、特別な42歳なのである。


7月から、日本コンクリート工学会四国支部において、品質確保の委員会を私が委員長として2年間の活動を開始する。今動いているプロジェクトを評価するとともに、委員が関心を持つ事項について、勉強したり実践したりしながら、四国方式の確立に向けて実行していきたい。


育った香川県高松市に腰を据えるようになって5年半が経過した。香川県の地で、土木工学、コンクリート工学に携われることに日々喜びを感じている。横浜にいたときとは助手という、今とは立場が違うので、見えているものが違うかもしれないので厳密な比較はできないかもしれないが、都会の大学等の研究者は総合病院の専門医、地方の大学・高専の研究者は開業医の町医者のような感じを持っている。

専門のコンクリートでいえば、今、コンクリートのゆりかごから墓場まで、を担当している。

話は遡るが、横浜にいたときに、日本コンクリート工学会関東支部 若手会21 という委員会に所属し、最後は委員長を務めた。上の方々の方針で、それなりの予算を戴き、自由な活動をさせて戴いたと記憶しているが、私が取り組んだのは、若手の社会人や学生のための見学会の企画であった。コンクリート工学の分野も、専門の細分化が進み過ぎると、自分自身の職業や研究だけを見るようになり、自信やモチベーションが保てなくなったりするのではないかという仮定の下、コンクリート工学全体を一気通貫で勉強する機会を設けよう、ということを提唱して、コンクリートのゆりかごから墓場までツアーを企画した。

骨材、セメント生産、建設、供用、維持管理、取り壊し、というものを1泊2日のツアーで見学するものである。委員の皆さんが積極的に動いて戴き、(実施は私が香川に赴任が決まり、後任の委員長であったが)実施にこぎ着けることができたし、その下調べの段階ではとても勉強になった。

話は戻り、今私は、香川県の地で、骨材、生コン、建設業、維持管理、それぞれの分野の方、民間、公務員問わず仕事をしたり、交流をするようになっている。分野や立場が異なれば、同じものも別の観点で見たり、常識や前提条件が異なったり、そういう中で、連携できること連携すべきことがよく見えてくる。

横浜国大で育てて戴いた結果なのか、私の性格なのか、結果として、いまの研究スタイルが、「色々な分野に飛び込んで、みんなを巻き込みながらやっていく」という形になってきた。そういうやり方と、今の環境がちょうどよくミックスしているように感じている。

色々な方とお会いする機会があり、記録にある最近は、自分の名刺の消費が年間平均500枚である。とはいえ、私が色々な方と交流して、単に「勉強になった」と自己満足して、評論家になっていてはいけない。何か動き出して、成果が出るか、という所が問題であるし、結果を出さなければ誰も見向きをしてくれなくなるだろう。毎日が試行錯誤の連続であるが、とにかく走り続けたい。

さらに、若手を育てる年齢でもあり、自分が動くのではなく、若手に活躍してもらうための場作りも行わなければならないし、それもいくつか実行に移している。四国のコンクリート品質確保についても、私だけが動くのではなく、自律分散的に動くように育てることがひとつのゴールであろう。


さて、ブログの発信、Facebookの発信は、マニアックであるのは認識している。マニアックでないものは敢えて載せていないため、マニアックに見えるだけである(違うだろ、と突っ込まれるのは覚悟で)。

ブログで発信が簡単にできるようになって、世の中には写真も豊富なページは多いが、果たして、技術資料として後世に残すものはどれだけあるであろうか、と考えると、必ずしも多くないと思っている。幸い、そういうことは好きなので、些細なことでも、きちんと取り上げて、徹底的に記載したページを残していきたいと思っており、それが私のオリジナリティーのひとつであろうかと思う。

昨年、ブラタモリのテレビ番組で、黒部ダムの回があったが、そのときに、3000アクセスぐらい、ブログの訪問者が短期間だけ増えた。それは、フランスのダムが決壊したマルパッセダムの記事である。今、マルパッセダムでググると、私のページがWikipediaの次に出てくる。他を見ると、Wikipediaを元に作られたまとめサイト程度である。個人できちんと取り纏めているのは私ぐらいだったように思う。これは一例だが、単に、面白かった、と写真を載せて終わりにせず、今後も実施したいと思っている。

教育ツールの開発も、進めたい。先日、舞鶴高専の取組みを拝見して、上には上がいると感銘を受けた。他者の良いところも採り入れて、愚直に進むことも、極めればオリジナリティーと思っている。良いものを作るのが目的なので、自分で自作することは手段であり目的ではないのである。

土木史についてももっともっと深めたいと思っているし、その経験が、教育や各種実践活動にも深く関係する。そのためにはとにかく時間が必要であり、仕事を効率化して、自分の教養を高めることに投資したい。家の通信環境の再構築も、その一環である。

ということで、41歳の1年間は、色々と自己改革を仕掛け始めた年であったと振り返るし、42歳はそれを使って成果を出していく年と思っている。昨年1年間にお世話になった方々に感謝するとともに、42歳で一層精進することを誓ってこの文章を終える。

通信環境の再構築

通信環境を再構築するのが、我が家の課題であった。1年半かけて本日切り替えが完了した。

1.携帯電話

ボーダフォン時代からなので20年ぐらいソフトバンクを使ってきたが、郊外での電波の繋がりの悪さ、そして高い料金、古くからの契約者の軽視などで、嫌気がさしていた。土木工学でコンクリートの調査や現場へ趣くことが多いので、1番目の理由は一番大きいように思う。

先に私が更新月になったのが、1年半前。iPhone6を使っていたので、SIMフリー端末にはならないため、色々考えた結果、iPhoneSEのSIMフリー版(5万円ぐらい)を新規購入し、MNPでdocomo系の格安電話会社を探すことにした。結果として、iPhoneが小さくなって良かった。

繋がりやすさといえば、今はauの方が評判が良いようであるが、1990年代の巨人docomoの田舎に行っても繋がる安心感を知っている身にとっては、docomoブランドは私にとって憧れの的であった。1年半前の切り替え時に、格安回線にau回線が少なかったのもある。

会社はNiftyのNifmoにした。その理由は、夫婦で通信量を分け合えるプランがあったためであった。さらに、ニフティは、大学に入学した1995年からプロバイダおよびパソコン通信時代からずっと継続しており、安心感もあってである。23年間も契約して同じIDを使い続けている。

1年半遅れて、妻も更新月になった。上記の理由で夫婦揃ってNifmoにするには、docomo回線への変更が伴うため、同じ妻のiPhone6では、端末をSIMフリー等へ乗換える必要があった。その後色々考えると、妻の場合、使う場所がソフトバンクでも問題なかったし、今ある端末と同じ画面の大きさを使い続けたいことを考えていた中、たまたまbmobileが、最近になってソフトバンク回線のMNPも開始したので検討をしてみた。

妻のパケットは、普段は小さく、年に2ヶ月ほど多く利用することがあるという程度だったので、段階料金というのもちょうどニーズに合っていた。

ということで、
 私 Nifmo docomo回線 7GB
 妻 bmobile ソフトバンク回線 最低1GBで使用した量の従量制
で落ち着いた。

通信料金を試算すると、年間でちょうど10万円下がることになった。


モバイルPCの通信用に、bmobile(docomo)の従量制(最低500円)を契約し続けているが、通信量としてはNifmoと重なるので、解約したいと考えているが、iPhoneを使ったbluetooth接続がうまくいかないので、それができるようになるまでは待つようにする。


空いた私のiPhone6端末であるが、iPod nano(第6世代)を5年以上振りに復活させて、当時小学校5年の娘の音楽プレイヤーとして昨年から使用させていたのだが、WindowsやiTunesのアップデートに伴い、最近になってPCから認識しなくなってしまった。そこで、急遽、私のiPhone6端末を初期化して、ネット接続もできないようにして、娘(小6)のiPod端末として復活させた。

2.インターネット回線

今まで高速通信が必要なかったので、ずっとADSLを使い続けてきた。職場でMicrosoftのOneDriveのクラウドが使えるようになったため、それを利用するには、ADSLの速度では我慢できないようになり、光回線に切り替えることにした。

四国電力のPikaraが圧倒的に安いことや、NTT電話回線の込み込みプランにすると、ADSL+NTT回線と全く同じ価格で利用できることも今更ながら知り、乗換えたところ、快適なネット環境が構築できた。

家の膨大な写真等のデータも、数十GBに達しているので、これまで外付HDD2台の三重化で対応しているが、バックアップ及びデータの二次利用を考えて、クラウドを検討し、1TBのクラウドも契約するようにした。


ということで備忘録や、ひとつの紹介として書いておく。

2018年6月19日火曜日

東へ西へ

産官学を巻き込むあるプロジェクトが佳境に入ってきた。

ちょっと早めに4時起きで出勤し、色々と庶務を行っていたところに、大阪の地震。高松、RC3階建ての1階の教員室では、初期微動っぽい物音でこれは来るなと思ったところに、1回ドンと揺れて終わった。

iPhoneの緊急地震速報が鳴らなかったのは、昨年の豪雨で小豆島の土砂災害情報で眠れなかったのでスイッチを切ったままであったことを思いだし、反省。

9:30より、高速を利用して1時間弱の香川県西部の方でとある試行工事の下打合せ。産官学で打合せをした。これまで、一同顔を合わせたのは1回切りだったので、もっともっと本音の共有が必要であり、来週スタートに向けての、ギリギリのタイミングだったように思う。施工者の全面協力で成り立つ今回のプロジェクトであるため、施工者の過度な負荷にならないように、調整が必要である。そういう意味で、私が暴走するところを実際に指摘いただけたことは嬉しい。それができるのはこうやって膝をつき合わせたときにしかできない。

全員で、近くのボックスカルバートで表層目視評価法のデモンストレーションを急ぎ足で行い、高専に戻る。往復の間、ずっと、NHKのテレビの地震報道の音声を聞いていた。

学校に戻り、10分の休憩も無いまま、午後1つだけ講義。

講義を終えて、香川大学へ移動。委員会報告会・シンポジウムに1時間遅れで到着。私は表面吸水試験について発表。100名程度の参加があった。四国には、ユニークな表層品質の測定手法を開発する研究者が多い。

ということで、本日も分刻みのスケジュールで、東に西に、という1日だった。夜は委員会メンバーと懇親会。

産みの苦しみ、と思いながら、色々なプロジェクトも動き出し、少しずつよりよい方向へ変わってきていることを実感。

2018年6月5日火曜日

日本水準原点

測量の日に合わせて、「日本水準原点公開」の報を知る。

「日本水準原点」

地図好きにはたまらない響きである。「原点」。東京湾の平均海面を基準にして、国会議事堂近くに、標高24.4140m(現在は変わっている)の所に、原点があるという程度であるが、登山、地図好きの私が、高校の時に「山の高さ」という本を買って読んで知った。

昨年か一昨年か詳細は忘れたが、国土地理院が測量の日に合わせて公開しているという話を聞いた。公開ということは、あの石造りの建物は、普段は一般公開されていなかったのか? 行ったことがなかったのでよくわからなかった。もしかして、日本水準原点は敷地内にあって一般の人は入れない場所に建っていて、その日だけ入れるのかもしれない、という程度であった。

今回、たまたま出張で東京に来ており、その日は12時頃に用事が終わるので、飛行機に乗るまで2時間ぐらいは空きがあるため、行くことにした。4回、10分程度のレクチャーがあるとのことで、せっかくならそれを聴きたい。

解せないのは、雨天は翌日に延期とのことで、地方から来る者はどうしろというのか、と思いながら当日を迎えた。午前中は曇りで、途中から雨が降り出すという、これまた、不安な天気である。行って閉まっていたらどうしよう、と思いながら、虎ノ門駅からタクシーに乗るべきだったと後悔しながら、国会議事堂前をダッシュして、何とかレクチャーの開始に間に合った。

小雨の中、10名余りの聴講者が集まり、ちょうど説明が始まったところに滑り込めた。

以下、撮影した写真を紹介していきたい。


上の写真は、社会科の資料集などに載っているあの建物である。実は、この建物自体が原点ではなく、「水準原点」というものを格納している「標庫」という。東京大学建築学科(当時は、造家科)の一期生 佐立七次郎(さたち しちじろう)による設計という。彼の大学同期に辰野金吾(東京駅設計)がいる。彼が設計して現存するものとして、これ以外に北海道小樽の旧日本郵船小樽支店の建物があり、見学で入れるらしい。

(後日追加:旧日本郵船小樽支店訪問記【リンク】

後日、佐立氏について調べると、何と、1856(安政3)年、高松藩(讃岐の国)(現、高松市)の生まれという。高松高校(その前身の高松中学)のできる前の話なので、直接の高校の先輩にはならないが、もし学校が存在したら、卒業生になるのは間違いないだろう。

まさに、色々な意味での私にとっての原点である。8月には土木学会の全国大会で北海道に行くので、彼の上記建築を見にいきたい!

【追記:その夏に、実際に北海道 小樽の日本郵船小樽支店に行ってきた報告はこちら

さて、その標庫であるが、中央のパネルが開いているのがわかる。


さすが、パネルには、菊の御紋が。

 中央に、水晶で作られたものが鎮座する。

写真を拡大して見て戴きたいが、目盛が刻まれている。中央の長い水平線が基準である。数字を見て戴きたい。数字の文字が上下逆転している。その理由は、測量をする人ならおわかりであろう。(画像をクリックして拡大)

測量で使うレベルという器具は、望遠鏡のようなものであるが、当時はレンズの性能が悪く、上下反転して表示される。よって、誤読しないように、上下反対に文字が刻まれているのである。当日はこのようにレベルがセットされているのが素晴らしい。

なお、この標庫は、資料集の写真などを見ると、小さい百葉箱くらいの大きさなのかと思っていたら、大きくて驚いた。

スマートフォンのカメラで、レベルを覗いた中を撮影。画面がひずんではいるが、数字を読むと、上下反転した後で、きちんと数字が読める。(画像をクリックして拡大)

 私は、24.4140mというのがずっと頭にあったが、実は、明治24年5月に、24.500m(数字に遊び心がある!)として設置されて、その後関東大震災で沈下して24.4140mになったものであった。そして、東日本大震災でも沈下して再度測量をし直していたとのこと。不勉強であった。

では、どのような基礎になっているのだろうかというのは、気になる。やっぱりコンクリートでしっかりと支持されていた。



10分の説明の予定が午前中は白熱して30分ぐらい話したとおっしゃった国土地理院の説明の方は、午後も30分ぐらい色々なお話をしていただけた。1人でパネル展示を見るのではなく、実際に説明を併せて聞くことで非常に充実した見学であった。小雨の降る中も最後まで実施いただいた関係者にお礼と敬意を表したい。

ひとつ、参加者としては、このPRチラシのインパクトがどうも・・・。
国会議事堂前の徒歩2分に位置する日本水準原点の建物にしまってある『一般公開していない! 水準原点』が、年1回特別に公開される、という風に表示をしていただければ、より魅力が高まるような・・・。地図オタクと思っていた自分も詳細を知らなかったので。
http://www.gsi.go.jp/kanto/kanto40002.html

ブログの移動(に近いもの)

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