2019年6月10日月曜日

目標の設定の仕方について

 思考の整理のひとつであるが、小さい頃から考えていたことを無性に整理したくなった。
 目標の設定の仕方について、いくつかの観点で分類できる。思い付くままに3種類の設定方法を考えた。

1) ゼロサムか、そうでないか
2) 相対的な評価か、絶対的な評価か
3) 評価が他人からによるもの、自分で下すもの

 ゼロサムとは、一方の利益が、他方の不利益になる考え方である。1)の例を挙げる。スポーツなどで○○大会優勝を目標とする方法である。これは明らかに、2名以上がそれを希望したら、絶対に、両者の目標が同時に達成されることはない。1人が達成したら、他者は達成できない。
 2)の例は、相対的な評価としては○○大学合格、のようなものか。定員40人に対して、41人以上いれば、全員が合格することはない。絶対的な評価として、入試得点○点獲得は、全員が達成することはある。

 教育や、指導を行う立場からは、ゼロサム、相対的評価をゴールを設定することは、際どいことがある。
 まず、相対比較になってしまうため、レベルが高まってくると、頑張りや、教育指導とは離れた評価となってしまうためである。あるレベルに達しているのに、目標に到達できないということが起こる。勝負の世界では、頑張って上達して、教育上何も申し分ないものの、たまたま相手が強かったために、勝てない、選ばれない、ということが生じることがあり、その場合の評価はどうなるのか。高校野球の甲子園出場を考えてもらえれば、わかりやすいだろうか。県で1位、2位を争う強豪校は、それほど力の差は無いと私は思う。当日の運のような側面もあろう。若年者は特に「ゴールに達成できない=挫折」というような自己評価になりがちである。努力の割に、達成できない人が多すぎやしないだろうか。

 ブラックジョークや、星新一のショートショートなどでよくある話だが、「世界最速の車が欲しい」「世界一頭が良くなりたい」という願いに対しての魔法使いの答えが、自分が速くなるのではなく「他の車がメチャクチャ遅くなって」それが達成されるという鉄板ネタがある。すなわち、結局の所、そういう面も多々ある。足を引っ張ることが、目的の達成になり得るということは、仕組みとして脆弱に感じる。

 ノートパソコン世界最軽量で、NECとFujitsuがしのぎを削っている時期があったが、そのお陰で人類は劇的な進歩を遂げた。そもそもPCは人間にとって何グラムでなければならない、という絶対的なものというゴールはなく、時代とともに変わり得るためか、そもそも人間は確定的には設定できない。そうやって競うことをひとつの目安としていれば、結果として人類の発展に寄与するのである。このように、ゴールが設定しづらいもので、かつ企業としての長い闘いを行う時間があることが約束されているときには、この方法で突き進むことに間違いが無いように思う。そういう関連した側面を、意識する/しないは別としても、結局その闘いによって人類の幸福がもたらされている。

 ただし、教育や、若年者の成長という、対象者にとって期限が限られていることがらに対して、そういった相対的な目標設定がなされることは、本当に良いのだろうか。

 ○○会社に就職したい、それ以外の選択肢は考えない、その会社に就職できなかったら挫折、ということもよく聞く。
 では、▲▲技術者として活躍したい、という目標設定であれば、すぐには答えは出ない。

 最後の3)について。サービス業というものは、概ね人からの評価によって成り立つので、人からの評価を切り分けることは難しいだろうか。例を挙げると、医者になって活躍したい、という場合は、人から感謝されたいという面があり、活躍したいというのは結局他人の評価なのだろうか。まだ議論が雑なので、もう少し深い考察が必要な気がする。
 イチローの野球への取り組みは、自分自身の評価かもしれない。自分が納得したスイング、守備をしたい、と。

 このような観点で整理すると、見えてくるものがある、と思っている。小さい時から違和感を感じていたことであり、結論は出ないものの書くことで少し整理がついた。

ブログの移動(に近いもの)

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