2011年1月25日火曜日

寛容

結婚して子供が生まれたり、社会に出て色々な人と接するうちに、色々な立場、能力の人がいることでこの世の中は成り立っていることに気づく。

私も若い頃は、屁理屈ばかりで、得した、損した、という狭い見方しかできていなかったことを考えると、恥ずかしいが、皆そういう時期があったのを乗り越えているのだろう。
人のミス、間違いに対しては、それで被害(というと大げさだが)をこうむった人は、何かしらの謝罪を受ける権利があるのは、明文化されているかは別として一般的に思われている。しかし、それを些細なことに対しても要求することばかりで、最近はギクシャクしているしているように思う。ぶつかったから謝れ、店員がミスしたから返金しろ、など。

ステレオタイプ的な批評になるが、古きよき日本、サザエさんやちびまるこちゃん、の世界では、おじいちゃん、おばあちゃん世代の大人が諭すことで、秩序が保たれているような気がする。色々な世代が生活することで、色々な考えがあることを自然と知る。
先週、馬淵澄夫前国土交通大臣の講演を横浜国大で聞いた。先輩の立場として、土木出身の国会議員として、日本人として国土交通はどうあるべきなのかという生のメッセージを発信された。その際、彼のベースとなっているのが、12人家族で暮らした、贅沢はできない、我慢することばかりだけれども心の豊かさを感じる幸せ、である。私は、兄1人の4人の核家族で育ってきたが、今は結婚して妻の家族とも、同居はしていないがわいわいがやがや付き合っている。規模の大小はあれ、彼の言わんとすることは、心から共感できる。


権利を主張するギクシャクした中、逆に、本来の意味でのクレームをつける、ということが、日本人ができていないのではないか、と思うことが多い。例えば、何か不具合を感じた際に、相手に対して、「これは違うと思う」と、まずは報告して、話し合うというアプローチだ。実は、そうやって冷静に第一ステップを踏むのは、大人の冷静な対処が必要となり、高度である。しかし、それを飛び越えて、そのように話し合うことも無く、いきなり対立の構図で、「謝罪しろ、返金しろ」、という要求となることが多いように思う。

何かを指摘することは、人と積極的に関わることであり、コミュニケーションをとらなければならない。慣れないと、それは苦痛だ。それを軽視すると、個人としては楽だろうが、結局はぎすぎすした関係になる。逆に積極的に関わることは、結果としてよいものを生み出す。
研究室も放っておけば、希薄なものになってしまうだろう。しかし、教員と学生のコミュニケーションや、先輩後輩のつながりを、くどいようでも続けていれば、うまい具合に混ざり合って、良い方向に向かうと思っている。

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