まず、今年の夏合宿は、紆余曲折はあったものの、学ぶべき人は深く学べたし、火をつけるべき人にそれなりに火をつけた、という点で、成功といえると思う。特に、合宿幹事の二人は、いろいろな困難に向かいながら、頑張ってくれたと思う。参加した学生も、今年にできる限りのことを実行してくれたように思う。素直にねぎらいの言葉をかけたい。
今回、学生全体や、特に打ち合わせをしてきた幹事には、いろいろとアドバイス(傍から見たら、口出し)をしてきた。ただし、これは、短絡的に夏合宿の体裁が整うためのものと思われていたとしたら、意図は違うので、補足したい。(1)全体には伝わらなくても、良質の「場」を提供したいのでキャッチできる人だけにプラスアルファの情報を与えたい、ということと、(2)運営のマネジメント手法を学ぶということも目的にあったので、少なくとも林ならどうするかという姿を見せる必要があると思い、それを見せてきただけである。指摘したことを学生ができていないからどうこうと思ったことは、特にない。私の評価基準として、ミスをした・しなかった、ということや、具体的な見学対象(諫早、雲仙、原爆、など)を学べた、という個別のことは、どうでもよいのである。
夏合宿の目的は、以前細田先生は、過去の合宿の場や、ゼミにおいて、目的を10個以上目的設定している、という話もあったが、私もそう思っている。全部書くと、弊害が大きいので、全部書くつもりはないが、多岐にわたる。
・前期ゼミの打ち上げ
・秀逸な見学をすることでの知識、経験、人間力の向上
・メンバーとの交流を深める(学生同士、教員と、留学生と)
・下調べを充分に行い、受動的でなく、能動的に学ぶ
・魅力的な合宿を構築することで、下級生や外部への研究室のPRを兼ねる
・資料の探し方のスキル向上
・幹事のマネジメント能力の向上
・幹事以外も含めた学生が主体的に動くための機会の提供
・そして忘れてはならないのは、単純に、見学や旅行を楽しむ。これが一番大事。
などなど、いろいろある。細かいこと、波及効果を入れれば、100個は挙げられるだろう。
夏合宿を実施するためなら、手段(長距離、長期間)を選ばない、このような形式にコンクリート研究室の夏合宿を変えてきて、数年たつが、ある程度最適化されてくると、昨年同様であることが、目先の合宿の成功・不成功の判断になってしまって、昨年同様にすることが目的として固定してしまう。これは私が怖いと思っている点だ。昨年〇〇をしたから云々、というレベルの話には、言い方が悪いがうんざりする。
反論としては、毎回目的地は違うし、メンバーも入れ替わったり、学年が上がったりするので、同じ条件はないから、それでよいのではないか、という考えもあろう。しかし、何をやるにも、(細田先生も別件に対して指摘する通り)目標よりも達成する現実は下がるのが普通であり、目標として現状維持を掲げた瞬間に、昨年よりもレベルが下がるのは目に見えている。
冒頭に書いた通り、今年の合宿としては、これでよかったと思う。あくまでも「今年」である。来年、今年の内容だったら、良かったとは思わない。
言葉を変えると、これまでの2012年度の半期という半年間や、これまでのコンクリート研究室の歴史を、夏合宿が比較的目に見える形で反映しているものであった、といえると思う。実力テスト、のようなイメージ。普段できないことは、夏合宿になったからと言ってできるわけでない。よって、できなかったことで不満があるとすれば、夏合宿自体を反省するのではなく、今後我々が進むべき道、我々が身に着けるべき方向性の一部を表していると私は思っている。
ただし、実力テストもそうだが、テストがあるからそれに向けて気分を一新して頑張ろう、というモチベーションもあるので、夏合宿自体が成長する要素ではあることも忘れてはならない。
今年はよかった、楽しかった、では進歩がないと思うので、来年のことを考えて、分析してみる。ただ、ここでの分析は、これらが達成できていれば今年はさらによかったのにね、というものではない。あくまでも、今年はこれでよかったのである。なかったことを望んでもしょうがない。
話にも出てきた「幹事」についていくつか具体例を挙げたい。目的と手段の違いは、今更いう必要はないが、以下のことはすべて手段である。
・幹事が主体になって行う。
・幹事はM1から選出している。
幹事の役割は、年々肥大化しているように思うが、これまでのやり方が目的化していないだろうか。M1が幹事で苦労をして、M2になったら楽ができる、というイメージも方々から聞かれた。そのような目的を設定した覚えはない。結果としてそうなるのは構わないが、それ自体が目的化していないだろうか。
プロジェクトにはリーダーが必要であるが、リーダーがすべてを段取りする必要はない。一般的には、むしろ、しない方がよい。細かいことに忙殺され、全体が見えなくなるからである。軍艦島の交渉、旅館の交渉、バスの交渉、すべて同時にできないことはないが、それに忙殺されて、見学もままならなかったら、本末転倒に思う。
また、全般的に過去に1回経験した人と、2回経験した人では、後者の方がいろいろと知識やアイデアは出てくるだろう。M2がリーダーになってもよい。それでは面白みがないので、むしろ4年生がリーダーになったほうが、もっと良くも悪くも活性化し、最終的にはプラマイでプラスになるような気もする。まあ、ここでは、誰が幹事をするかを議論したいのではないのでやめておく。
私の意見は、単に夏合宿を高度化するという部分最適化ではないかと指摘する人もいるだろう。しかし、私はそうは思っていない。別に今年の段階では、今年の合宿はよかったと思っている。
楽しむことも大事で、高度化していくと息が詰まるのでは、という危惧もわかる。高度化することが目的ではない。今年よりも、来年もっと楽しむには、ちょっとずつ変わっていかなければならない、ということである。
また、提案のあった百人一首がなぜ消えたか、学生の中でくすぶっていたゼミを開催するか否かという意見が、なぜオフィシャルに少なくともプライベートにでも出てこなかったのか、が疑問である。結局、だれも触れなければ、実行しない。うがった見方をすれば、それを期待しているようにも見える。
提案意見と、それを踏まえての行動は、別に変わってよい。しかし、そのプロセスには、きちんと意見交換をして、最適解に落とし込むことが必要であろう。立場の強い人の意見が通るわけではない。
日本人の悪い癖として、建前と本音が異なったまま、物事が決まっていくことは、現代のやり方としてはやはり間違っている。意味がない、時間がない、など理由があればそれを公にして合意を取って、やめるべきであろう。何となくの雰囲気で、というのは、良くない。
この辺の考え方は、合宿に限らず、最近の例でいえば、鍵の紛失事件(その後も何も音沙汰なし)、などに見られるように、根本は同じである。行動できるか、ということが試されている。
留学生のケアも、もちろん学生だけでなく、教員も主体になりながら対処しなければならい。今回、細田先生が、その部分をカバーすると公言する異例の合宿となったが、手段はともあれ、結果としてそのように動く姿を学生および若手教員(私)に背中を見せることは、細田先生なりの目的を達成する手段であるとともに、我々への教育の意思表示である。
勝手なことを述べたが、私は傍観者であってよいものではなく、私自身も反省するべき点はたくさん見えてきた。これは来年の夏合宿ではなく、今から行動できることばかりである。
高校生や、他大学へのPRとしては、感想文は毎年公開しているとして、見学自体の魅力も見せることが必要と私は思っている。初年度からの数年は教員、最近では、幹事や学生担当者からのブログであったりするが、今年はどうなるのか。幹事には私の口から言っていないし、そういう流れができているわけでもない。どうしても、フェイスブックや個人のブログなどへの閉じた空間で満足しがちなので、この辺は、研究室としての重要事項として昇格する必要があろうかと思う。ちょうど、ホームページの再整理ということが始まりつつあるので、議論して再構築していきたいと思っている。
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