2012年8月24日金曜日

アートコンクリートの鑑賞

2012/9/9 一部、間違いがあったので、専門用語の記載を変更しました。

<嘘>

昨日、最近話題になりつつある「アートコンクリート」の鑑賞に行きました。北陸地方を舞台にして、いわゆる無味乾燥と指摘されるコンクリートの土木構造物に対して、町を挙げてアートに変えてしまおうという取り組みの一つです。

作品No.154をご覧ください。1羽の鶴が、天を目指して羽ばたく様子がコンクリート壁面に描かれています。一切顔料などの色素を使わずに、コンクリートに混ぜるセメントと水の割合を変えることで、色の微妙な変化をもたらしています。自らをコンクリートブリーダーと呼ぶ、この作品の作者の林さんは、震災や政治不信に混乱しながらも、負けずにより高みを目指そうとする力強い思いをぶつけてみた、と語っていました。手塚治虫の火の鳥の作品も思い起こさせます。




<実際>
昨日、北陸地方のコンクリート構造物の調査に行きました。最近、私が所属する複数の土木学会委員会でも話題になっていたものです。レミコン(生コン)のブリーディング(材料分離して水が浮いてくること)が多く、その影響が完成後のコンクリートに見られるとの報告を受けて、実際に見に行くことにしました。

当初、現在進行中の特定のプロジェクトの構造物群にそれが見られるという報告でしたが、独立した他の構造物も含め、現在、過去のコンクリートを見てみたところ、ほぼ全てにわたって、ブリーディングによる砂すじの跡が、私が過去に経験した中よりも多くみられました。

道路や鉄道構造物だけでなく、町の建築物の塀や、学校建築にも、ブリーディングの跡が顕著に見られた割合が多かったのが全体的な印象です。

写真は、とある道路構造物の橋脚です。耐震補強の目的か、巻立て補強をしているので、ここ10年の施工と思います。ブリーディングによる材料分離によるものと思われる、水の流れたような色むらが見られます。これは、1日の見学の中で一番ひどい(色の変化が大きい)例なので、全部がこうなっているわけではありません。また、色むらと砂すじは異なるので、耐久性に問題があるわけではありません。

骨材にその原因の多くがありそうと指摘されており、今後現地の骨材を取り寄せたり、配合を取り寄せたりして分析したいと思っています。

<備考>
写真のGPSの座標情報は消していますので、ダウンロードして解析しても、場所はわからないようにしています。


2012年8月11日土曜日

戦争

昨日、東北調査から帰ってきた。委員会に関係する調査・打合せであり、津波で被災を受けた鉄筋コンクリート橋梁の復元設計をすることも一つのミッションで、私は実質的に初めて配筋調査を行った。現地はがれきの分別、片づけが淡々と行われているが、復興は全く進んでいないように見えた。今日は、大学で残務処理をして、明日の早朝から、家族の夏休みに合流する。

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さて、戦争のことを語ると、なぜか日本では思想が云々、という雰囲気になってしまうが、とにかく私の中での最近ホットな話題は太平洋戦争である。小学校5年から中1までの3年間、長崎に住んで、原爆教育を受けたことも影響している。7月の学会で広島を訪れた際も、10年ぶりぐらいに平和祈念館に行ったが、その間に、結婚して子供を持ったこと、東日本大震災が起きたこと、が、感性を何倍にも大きくしてくれて、涙が止まらなかった。



最近はまっている本が、「猪瀬直樹」の著作である。道路公団民営化、関連で、土木技術者の中では、その印象が強く、拒否反応を持たれている方も多いようであるが。

氏の戦争三部作である、「昭和16年の敗戦」、「黒船の世紀 -あのころ、アメリカは仮想敵国だった」、「東条英機処刑の日」を続けて読んだ。日本が太平洋戦争を起こしてから、終結するに至るまで、どのような意思決定がなされ(また、なされず)たのかについて、私が全く知らなかった視点で語りかけてくる。


戦争を開始する前、30歳半ばの若手エリートが集められた「総力戦研究所」で、各省庁の詳細なデータを根拠に、既に戦争が負けることが詳細にシミュレーションされていた。山本五十六が真珠湾攻撃を決めるずっと前から、日米においてそれぞれの専門家による、日米未来戦記の小説が発表されて、国民が熱中して読んでいた。

他に、私にとって衝撃の事実として、
-A級戦犯が起訴された日:4月29日 昭和天皇の誕生日
-東京裁判の開始:5月3日 憲法記念日
-A級戦犯で有罪の7名の絞首刑が執行された日:12月23日午前0時1分 今上天皇(平成)の誕生日

という、戦争責任を将来に渡り日本人に刻み付けた、アメリカの戦略も。


東条英機ら7名の絞首刑後の遺体は、GHQにより、彼らが偶像化されないように、秘密裏に処理されたが、火葬が行われたのが横浜の久保山火葬場であった。現在名「久保山霊園」は、何と、私の自宅から数百メートルのところで、私は毎日の車通勤で目の前を通っていた。当時、日本の遺族側が何とか情報を入手して、隣の興禅寺の住職らの協力を得て、GHQに隠れて遺骨の一部を救出したドラマがあった。

たまたま今朝時間が取れたので、初めて久保山霊園と興禅寺を訪れた。霊園には場違いな服装で行ってしまったので、外見を見ただけで早々に退出したが、興禅寺では、当時の住職によるその救出のとが記された記念碑が建立されていたのを見つけた。


先人があって、今の私がいる。まずは、日本を良く知ること、それに尽きる。

2012年8月6日月曜日

またまたまた・・・・技術士

今年で何年目か忘れるぐらいですが、また技術士を受験しました。残念ながら、1つ目の技術士を目指してです。本学のT先生のように、複数の部門、複数の科目を取得できるまでには至っていません。まずは1つ目を。

私の同期が技術士を取得したという話を聞くたび、後輩が取得したのを聞くたび、焦りは出ていました。最近では、いろいろと交流が広がると、試験会場で会ったりするのが恥ずかしくて。

昨年は、一般、専門ともA判定とれた、と思ったら、まさかの一般がB判定。これが続いていました。

今年の一般問題は、例年と同じ内容の問題で、何のひねりもなく、書きやすかったのですが、ボーダーは上がるのかもしれません。

今年は、有料の添削を申し込んでいました。背水の陣で、あらゆる手段を使おうと思い。でもふたを開けると、結局頑張ったのは、直前。前から、直前にはベトナム出張やら忙しいのは分かっていたのに、なぜ動けなかったのだろうと、最近は自己嫌悪の連続でした。

社会人はみな忙しいので、改めて思うのは、その忙しさに流されずに、やり遂げることができる力、それが技術士だ、と。だから、忙しいとの言い訳は、技術士にはそもそもふさわしくないと。

昨年も思ったのですが、きちんと勉強してみると、やっぱり(その時から)1年前の論文ではダメだな、と改めて思います。論理的な考察が欠けている、など。少なくとも1年前からはちょっとは進歩しているのでしょう。その進歩とは、単に知識の増加だけでなく、そもそも短時間でどうやってインプットするか、それを活用するか、そういう能力も含めて。

技術士の試験は、合計6時間、手書きで論文を書きましたが、必須ではないものの、面接に向けて自分が書いた論文を復元して勉強し直さなければなりません。例年、終わったらビールを飲んで安心し、すぐに仕事に忙殺されて、気づいたら詳細を思い出せないことになっていました。今年は違うぞという決意の下、試験会場から出たら、すぐに近くのファミレスに入り、用意しておいたPCを開いて、ひたすら復元作業に取り掛かりました。食事もしながらで、結局3時間かかりました。合計9時間、文章を書いたのは、論文執筆ではよくあることですが、大変でした。

結果として満足した1日となりました。クタクタですが、「逃げないこと」を学んだ1日でした。とにかく、行動に移すこと、に尽きます。それが難しい。

なお、数日前の学会の委員会で、委員の一人がたまたま同い年ということが分かったのと、彼が技術士を持っていたことが、逃げ出すことを引き留めた一つの力でした。感謝します。

ベトナム出張前まで続いていたトレーニングなどが、この勉強などでリセットされていたので、明日から再度復活したいと思います。東京マラソンにエントリーしたことだし。

2012年8月1日水曜日

ベトナム帰国

ベトナムのホテルでは、フェイスブックと、Googleのブログの両方がブロックされていて、つながりませんでした。ネットやGmailはできたのに。

焼けましたが、無事に帰ってきました。

写真入りの滞在記を載せたいけれど、全くそんな時間がないので、夏休暇の宿題にします。

ブログの移動(に近いもの)

表現活動の主体をnoteに移行しました。時間をかけた論考などはnoteに集約するようにします。こちらのブログはアーカイブとして残しますが、過去に力を入れた執筆したものは、再編集してnoteに投稿することもあります。 https://note.com/hayakazuh このブログ...